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第201話  何もしない、という選択

last update publish date: 2026-10-12 13:00:28

(田中美鈴視点)

朝のオフィスは、いつも通りだった。

コピー機の音。

コーヒーの香り。

始業前の、少しだけ緩んだ空気。

その中で、美鈴は一瞬で気づいた。

(……ああ)

朱里が、いつもより少し静かだ。

無理に笑ってはいない。

でも、考えごとをしているとき特有の、視線の置きどころのなさがある。

数分遅れて出社してきた嵩も、同じだった。

挨拶は普通。

態度も変わらない。

けれど、美鈴の目にははっきりと映る。

(二人の“間”が、昨日より張り詰めてる)

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    (田中美鈴視点)朝のオフィスは、いつも通りだった。コピー機の音。コーヒーの香り。始業前の、少しだけ緩んだ空気。その中で、美鈴は一瞬で気づいた。(……ああ)朱里が、いつもより少し静かだ。無理に笑ってはいない。でも、考えごとをしているとき特有の、視線の置きどころのなさがある。数分遅れて出社してきた嵩も、同じだった。挨拶は普通。態度も変わらない。けれど、美鈴の目にははっきりと映る。(二人の“間”が、昨日より張り詰めてる)悪い意味じゃない。壊れそうな緊張じゃなくて、触れれば動いてしまう、完成直前の形。美鈴は自席でPCを立ち上げながら、ふっと小さく息を吐いた。(……もう、私の出番じゃないな)少し前なら、声をかけていた。朱里をランチに誘って、「不安なら不安って言えばいい」そう背中を押したかもしれない。あるいは嵩に、「彼女は強がるタイプだから」と釘を刺したかもしれない。でも、今日は違う。朱里は、自分で考えている顔をしている。嵩は、自分で選ぼうとしている顔をしている。その間に割って入るのは、

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    (嵩視点)部屋に入って、電気をつけなかった。スーツのままソファに腰を下ろし、背もたれに頭を預ける。今日一日、頭のどこかでずっと引っかかっていたことが、静けさの中で、はっきりと形を持ち始めた。(朱里は……何も言わなかった)引き止めもしなかった。責めもしなかった。期待も、不安も、全部飲み込んだような顔で、ただ話を聞いて、頷いて、そこに立っていた。嵩は目を閉じる。思い出すのは、別れ際の朱里の横顔だ。笑っていたわけじゃない。でも、泣きそうでもなかった。あの表情が、ずっと胸に残っている。(あれは……納得、じゃない)そう思った瞬間、胸の奥がひくりと痛んだ。納得していたなら、もっと楽だったはずだ。「行ってください」そう言われていたら、覚悟はもっと単純だった。でも朱里は、そう言わなかった。嵩はゆっくりと息を吐く。(じゃあ、なんで言わなかったんだ)遠慮?大人の配慮?それとも──信頼?どれもしっくりこない。朱里は、言葉を選ぶ人だ。感情がないから黙るんじゃない。むしろ逆で、感情が多す

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    部屋の電気をつけたまま、朱里はベッドに腰を下ろした。鞄を置く気にも、着替える気にもならない。ただ、さっきまでの時間が、まだ体の中に残っていた。(引き止めなかった)それが、今夜いちばん大きな事実だった。「行かないでください」 「一緒にいたいです」 「私のこと、どう考えてるんですか」言おうと思えば、いくらでも言えた。でも、言わなかった。嵩が選択を差し出してくれたのに、それを“縛る形”で受け取るのが、どうしても怖かった。スマートフォンを手に取る。画面は暗い。通知も、メッセージもない。(……これで、よかったの?)問いが浮かぶ。正解かどうかなんて、分からない。ただ分かるのは──言わなかった分だけ、胸が痛いということ。朱里はベッドに仰向けになり、天井を見る。「引き止めないって、大人な選択だよね」小さく呟いてみる。でも、その言葉は、どこか他人事だった。大人だから引き止めない。相手の未来を尊重するから言わない。それは、たしかに綺麗だ。でも。(本当は……怖かっただけじゃない?)言って、拒まれるのが。重いと思われるのが。

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